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被爆・戦後80年 次世代へ平和への祈りを込め語り継ぐ 「Hibakusha Dialogue」開催〔埼玉〕

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パルシステム連合会

「生き延びた使命」で伝える被爆の記憶

生活協同組合パルシステム埼玉(本部:埼玉県蕨市、理事長:西内良子)は8月8日(金)、さいたま市浦和区の活動施設「ぱる★てらす」で、被爆体験を聞くイベント「Hibakusha Dialogue」を開催しました。オンライン参加を含む約30人が、広島で被爆した坂下紀子さんの話に耳を傾け、平和を語り継ぐ意味を考えました。

世界への被爆証言が築いた「核のタブー」

イベントを進行してくれたのは、公益社団法人ピースボート災害支援センター(PBV、本部:東京都新宿区、山本隆代表理事)の古賀早織さんです。古賀さんは、国際NGOピースボートが主催し、世界で被爆の実相を伝え、核廃絶を訴える「おりづるプロジェクト」の事務局として坂下さんとともにピースボートに乗船しました。「被爆証言のつらい体験を聞き、思いを受け止めるには準備が必要です。これから皆さんの心にまく平和への願いの種が芽を出すよう、耕す時間にしたいです」と、話し始めました。

▲被爆者笹森恵子さんのメッセージを紹介する古賀さん(左)

古賀さんは、おりづるプロジェクトに参加した笹森恵子さんの言葉を紹介しました。笹森さんは13歳の時に広島で被爆し、上半身に大やけどを負いました。終戦後ケロイド治療のため渡米し、その後看護師として働くかたわら全米各地で被爆体験を伝えてきました。「つらい体験をしてもなお平和は実現できると思うか」と子どもたちから問われると「勇気と行動、愛があれば必ず実現できます。平和は夢や希望ではなく使命です」と答えていたと古賀さんは言います。笹森さんは「出会った人たちの思いが、平和への行動につながっている」と話していたそうです。

シンガポールでは、日本軍による現地人虐殺の被害者遺族もいる中で原爆被害を話すため、参加者の声を聞かせてもらうことから始めたそうです。証言をした在日韓国人2世の李鐘根(イ・ヂョングン)さんが在日と被爆の二重の差別を語るなか「日本がアジアを侵略しなければ原爆投下もなかったのでは」との発言も出たそうです。それぞれの立場により正解がないなか、論議しながら世界での証言活動をしていることを紹介しました。

被爆者たちと訪れたアウシュビッツミュージアムは、唯一の日本人ガイド中谷剛さんの案内で見学をしました。中谷さんは、真実を正確に知って継承し、差別を傍観せず行動する重要性を語り、生還者の「人間の尊厳は差別や暴力が奪う。若い世代に戦争の責任はないが、繰り返さない責任がある」とのメッセージを伝えてくれました。館内には「悪は思考停止となった傍観者が生み出す」との言葉もあり、感銘を受けたと話します。

パレスチナ難民キャンプでは、不条理に故郷を追い出されながらも、いつか帰れると願い家の鍵と権利証、庭の土を60年以上持ち続けている人たちと対話したそうです。戦争という暴力を前に、言葉は抵抗の力となり得るのかと問い作られた、ガザの詩人による「私が死を免れないなら」という詩を紹介しました。

古賀さんは「世界で核軍拡が進むなか、『核のタブー』により長崎以降は一度も原爆が使用されていません。被爆者一人ひとりが証言を続けてきたことで築かれた国際規範です」と話し、被爆体験を語り継ぐ重要性を訴え、坂下さんに話のバトンを渡しました。

▲オンラインで母の記憶を語ってくれた坂下さん

坂下さんは2歳の時、広島で被爆しました。当時の記憶はないものの、母や叔母、祖母が語った被爆による心身の苦痛を伝える証言活動を続けています。被爆した日のことを語り続けた母の記憶を「命のバトン」として以下の話をしてくれました。

母・叔母・祖母の被爆の記憶

原爆投下の日は、母に兄と連れられ段原町の実家を離れ、爆心地から近い中広町の祖母の家で暮らしていました。叔母も近くの八百屋で働くため、4人のいとこを祖母と母に預けていました。

8時15分、閃光が走り地響きがし、音とともに真っ暗になりました。爆風で町中が天空に蹴り上げられ、解体された材木が降ってきて私は下敷きになりました。気を失いかけていた母は子どもたちの泣き声で我に返り、顔中血だらけの私を抱き上げ、下駄箱の下敷きになっていた兄を助け出しました。祖母とともに4人のいとこも瓦礫から引きずり出すと、あっという間に火の海になり、逃げ場のない溶鉱炉の中のようになりました。

母は私を負ぶって2歳のいとこを抱き、4歳の兄の手を引いて道のない瓦礫の上を踏み越えて逃げました。祖母はいとこたちに紐を持たせ、離しちゃだめだと言い聞かせ子どもたちを連れ出しました。足元から助けを呼ぶ声が聞こえる中、母は「おばさんこらえてちょうだい」と声を掛けるだけで、自分たちが逃げるのに精いっぱいでした。

裏の河原に逃げ着くと、大勢の人がぎゅうぎゅう詰めになり、腰掛ける隙間もありませんでした。土手をさまよっていると黒い雨が降り出し、次第にコールタールのようになりました。拾ったトタンをかぶっていると石ころが押しつぶされるように降り続け、私も兄も全身真っ黒になりました。

雨が止み土手に上ると、広島の町中が空を真っ赤にして燃えていました。川は満潮になり、川底が見えないほどの死体でいっぱいになりました。馬や牛、猫や犬も熱さで川に逃げ込み、赤ちゃんを抱いたままの母親も何体も浮いていました。

働きに出ていた叔母は、原爆投下の標的とされた相生橋の上で被爆しました。振り向いた瞬間に原爆がさく裂し、河原に吹き飛ばされました。河原は捨てられた牡蠣殻だらけで、頭から突っ込んだ叔母の顔に突き刺さりました。気が付いて立ち上がると、周囲の人たちはみんな死んでいました。叔母の目は腫れ上がり、皮膚は溶け人とは思えない姿になっていましたが、子どもたちを思い出し、一心不乱で中広町に戻りました。

祖母は働きに出ていた叔母を心配し、河原から中広町の家に戻ることにしました。焼け野原になり何もありませんでしたが、井戸だけが残っており、叔母が立っていました。衣服もなく体中の皮膚が溶け、牡蠣殻が刺さったお化けのような姿の叔母を見て、祖母は良く帰ってきてくれたと抱きしめました。子どもたちは恐ろしくて近寄れませんでしたが、叔母は顔を見て安心したのか気を失って倒れました。

叔母は熱を出し、そのまま畑で野宿しました。放射能でいっぱいだったであろう井戸水で叔母の身体を冷やし続け、子どもたちは朝晩ずっと井戸水だけを飲んで過ごしました。どうしようもないので、山あいの祖母の田舎まで何日もかけ歩いて行きましたが、お化けの集団と誰も入れてくれませんでした。

祖母たちは中広町の焼け後からトタンや廃材を拾ってきて、寝れる場所を作り終戦を迎えるまで過ごしました。母は終戦を迎えると子どもたちを連れ段原町の実家に戻りました。

フィリピンに出兵していた父は間もなく帰ってきて、足に大きなケロイドを負った兄の姿を見てショックを受けました。母が姑をほったらかしにしてわざわざ爆心地に近い実家に帰り、子どもを被爆させたことを攻め続けました。

食べもののない時代だったので、夫が出兵すると実家で食べさせてもらえと帰される人が多かったようで、母も小姑から「自分が姑の面倒を見るから」と言われ帰されていました。嫁の立場では言い訳はできないので、父は長い間母を恨み続けたそうです。

母を苦しめ続けた「鬼になった」記憶

原爆投下の日、庭には赤いカンナの花がたくさん咲き誇っていたそうです。母は、カンナの花を見るとその日を思い出すのか、いつも震えて逃げていました。母は、私には当時のことを繰り返し伝えてくれましたが「他の人は分かってくれない、口では説明できない」と誰にも語ることはありませんでした。

母は子どもたちを連れて逃げる時、自分は年寄りや子どもを振りよけて、苦しみ抜いた人たちを助けもせず、死体を踏み超える鬼になったと自分を責め続けていました。

優しい人でめったに怒ったことのない母は、私がふてくされて「嫌じゃけんもう死にたい」と言うと「何てことを言うのか」と本気で怒って、涙をためてほっぺたを平手打ちにしました。助かるかもしれなかった人を見殺しにし、踏みつけ逃げた記憶が、母を苦しめていたからだと思います。 

96歳まで生きた母は、晩年認知症を患い娘の顔も分からなくなってしまいました。2人で散歩をしていた時、赤いカンナの花が咲いているのをじっと見て「きれいですね」と言っているのを聞いた時、自分は鬼になったという被爆の記憶も忘れたのだと嬉しくなり、母を抱きしめました。

子どもの頃は、叔母や祖母、いとこたちからも繰り返し聞かされた被爆の記憶は、良い気持ちがしませんでした。爆心地にいた9割の人たちがみんな死んでしまったのに、私は元気にしていれば、周りの大人たちに「助かってよかった、奇跡の子だったね」と言ってもらえる子ども時代でした。

私が生き残ったのは、被爆の記憶や戦争の怖さと愚かさ、命の大切さを話す使命を受け取ったからだと思います。被爆者であることを隠し、忘れてしまいたい人も大勢います。辛い体験を話して受け止めてもらうには、勇気が必要です。辛い話は聞くのも嫌なことですが、なかったことにして忘れてしまおうとせず、逃げずに向き合ってください。

被爆者の証言は、世界の平和への願いを込めた祈りだと思っています。命がある限りどんなことがあっても、1日でも長生きして、母たちの記憶を「命のバトン」として伝え続けます。

被爆者と次世代つなぐプロジェクト

イベントは、核兵器をなくす日本キャンペーン(本部:東京都豊島区、田中煕巳代表理事)が呼びかける「Hibakusha Dialogue」プロジェクトとして開催しました。核兵器のない世界を目指し活動する次世代の若者たちが、被爆者との対話により核兵器廃絶の重要性を考えてもらうため、各地域で企画しています。 

被爆者の平均年齢が86歳(2025年3月、厚生労働省)を超え、直接の証言を聞ける機会が減少しています。核兵器使用が生み出す災禍の実相を次世代に伝えていくため、私たち一人ひとりができることを問いかけ平和の意味に向き合います。

▼被爆・戦後80年にメッセージ パルシステムはあらゆる暴力の行使を認めません

https://information.pal-system.co.jp/press/250815-peacemessage/

平和へのメッセージ100件超 

イベント会場の「ぱる★てらす」では、広島と長崎への原爆の週に併せ、「平和への思い」を募集するメッセージツリーを設置しました。最終日には107枚の「葉っぱのメッセージ」が集まり、訪れた人の平和への願いが茂りました。

会場には丸木美術館「原爆の図」のパネルも展示し、来場者が閲覧しました。

▼被爆・戦後80年 「平和への思い」を茂らすメッセージツリー設置 8月8日(金)まで〔埼玉〕

 https://information.pal-system.co.jp/press/250804-saitamapeacetree/

パルシステム埼玉はこれからも、利用者とともに平和のためできることを考え、実行していきます。

生活協同組合パルシステム埼玉

生活協同組合パルシステム埼玉

所在地:埼玉県蕨市錦町2-10-4、理事長:西内良子
出資金:94.4億円、組合員数:22.8万人、総事業高:331.5億円(2025年3月末現在)
HP:https://www.palsystem-saitama.coop/

パルシステム生活協同組合連合会
所在地:東京都新宿区大久保2-2-6 、理事長:渋澤温之
13会員・統一事業システム利用会員総事業高2,604.2億円/組合員総数176.2万人(2025年3月末現在)
会員生協:パルシステム東京、パルシステム神奈川、パルシステム千葉、パルシステム埼玉、パルシステム茨城 栃木、パルシステム山梨 長野、パルシステム群馬、パルシステム福島、パルシステム静岡、パルシステム新潟ときめき、パルシステム共済連、埼玉県勤労者生協、あいコープみやぎ
HP:https://www.pal-system.co.jp/

2025年は国際協同組合年です

出典:PR TIMES

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企業プレスリリース詳細へ (2025年8月18日 13時10分)

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